昭和44年02月15日 夜の御理解



 心が神様へ向かいますと、不思議に御結界がひたひたとしてきますね。どうも、毎日お参りしよっても心が神様から、こう外れておりますと、何か御結界が敬遠したくなります。遠く、遠くの方から、お辞儀しようなってくる。心が神様へ向かうております時には、本当にあの、少しでも御結界に寄りたい。御結界の側で、に寄りたいと、そういうような心が強くなって来るようです。
 信心が結局あの、神様を信ずる事のの出けれる、そこに人間の幸せがあると言うのですから、神様から信じられる事がお徳を受ける事だという事になるのでございますから、そしてもう一つその、神様との何て言うんでしょうか。近親感とでも申しましょうかねちょっと言葉が適当でないようですけれども。とにかくあの御結界にこの、とにかく御結界に出たい、側に寄りたいという時なら、大体信心が間違いない時です。
 自分の心が神様にこう向かうておる時です。金光様の御信心はどこまでも、だから御結界が中心ですから、その御結界に行ってこの、なるほど、まあ言うならば腹蔵のないお届け、お取次ぎを願うという事が願えれるという事が、おかげを頂く元でもありますから。ね、今あの、久富繁雄さんところの嫁さんですね、毎朝、朝の御祈念に。もう私は信心なあせん、私は信心なあ分からんて、もう頭からそう言いよったそうですが、最近ここ4~5日参って来よります。
 それにこの頃、自分の心が神様に、向かうて参りましたからですね、これ何か一言なっとん、お届けせにゃおられないといったものを、感じるらしいんですよ。ね、今日もあの、お届けを致しましたね。今日は農休日でございましたから、主人が、もう今日はお前は「愛吉?」を連れちから、昼どんゆっくり参りゃええじゃなかかち言うてから、言いましたけれども。
 やっぱり朝のお参りの方が有り難いと思うてから、朝参って来ましたとこう言う訳なんです。本当にあの信心な私は分からん。しかし私はとても信心な出けんち言うちから、こん」から言いよった人がですね、心が神様に向かうて来るとこうそういうまあばさらかものを言う事が好きな女の、とは思われないのですけれども一口なっとん、こう御取次ぎを頂くとか、その願わにゃ損するというごたる風な意味じゃなくてですね。
 何かこう、一言でも御結界にお届けする、いわゆるひたひたと、その感じるのではなかろうかという風に思います。御結界に、何かもう、このお取次ぎの頂く事の対してか、何かこう新味を感じない時はですね、神様に対する信も薄い時。同時に、そういう中から神様が信じれれる、神様を頂く事も出けない、なおさら神様から信じられるというような御徳を受けれれるハズももちろんありませんですね。